デレク・ジャーマンに魅せられて それぞれの追想

Derek Jarman: Eden in the shadow of Dungeness
Seiji Okumiya Photo Exhibition

6月18日(土) ~ 7月26日(火) 12:00~19:00(水・木・金・定休日)0,

奥宮 誠次
デレク・ジャーマンの最晩年を追った写真『原発ガーデン』より展示

●小渕 もも
『ずっとずっと空の彼方までも行っている気分なのです。
ダンジネスの浜、デレク・ジャーマンの庭』絵本の原画

●三上 晃央
プロスペクトコテージ初期の家模型

奥宮 誠次さん在廊予定 6/18土・6/19日・6/25日・6/26日
小渕 ももさん在廊予定 6/18土・6/25日・6/26日・7/5火・7/26火 いづれも14時〜

 

イギリスの映画監督でもあり、画家、舞台美術家、詩人、園芸家、でもあったデレク・ジャーマン。
彼は HIV で 1994 年に他界した後も、たくさんの人達にあらゆる角度から刺激を与え影響を与えてくれた。特に亡くなった後に出版された本「derek jarman’s garden」で彼のコテージの庭を、世界の人々が園芸家としての一面も知ることになったのです。その後、日本でもあらゆる雑誌でデレク・ジャーマンは特集されていたことも記憶に残っています。
私がデレク・ジャーマンを知ったのは、映画監督というより、自分の趣味でもあるガーデニングから「derek jarman’s garden」の本で園芸家としての存在を知ったのが、たしか 1995 年か 96 年頃だった記憶があります。ちょうどその頃、仕事で海外出張中にロンドンのスタッフからガーデニング好きな私に出版されてすぐイギリスで話題になっているということで教えてもらった一冊の本でした。

その本は今まで見ていた植物のガーデン本とは別世界 だったのです。その場所はダンジネスという、もともとは漁村で原子力発電所のある荒涼とした土地で、とても植物を育てるには過酷というべき場所で海から来る潮風などの気象条件の環境下、きっと庭の土壌改良から植栽まで、時間をかけてつくりあげたであろうデレク・ジャーマンのプロスペクト・ コテージだったのです。その周りにはフェンスもなく境がない、この土地に漂流してきた流木や海の潮風で錆びついた鉄を材料にオブジェをつくり、波と風で摩擦したごろごろと転がった石ころの土地に植物を配してつくりあげたものだったのです。庭仕事は一進一退、写真を見ればわかる土地状況から、 きっと失敗しながら根気よくつくりあげてきたものだと感じました。庭作りしながら植物を育てたことがある人なら、こういう環境で植物を育てること の難しさを知る人も多いのではと思うのです。これは一言でガーデニング という表現にとどまらない世界でもあり、この土地を選び自然を受け入れながらデレク・ジャーマンの何かわからないけど大きな闘いみたいなものを私は感じたのでした。
彼の言葉で “My garden’s boundaries are the horizon.” 私の庭の境界は地平線である。その言葉にはそこから見える原発の建物も庭の景観の一部であり、 そして彼のコテージは、漁師小屋をリノベーションして黒くコールタールで塗った木に黄色の窓枠のコテージは、その景色の中でまるで小さなランドマー クのようにも見え、こんな過酷な環境でも育ってる植物に命の尊さを感じました。それは壮大な自然と対峙しながら時間をかけてつくりあげた景観がデ レク・ジャーマンが描くこの環境と一体化した作品なんだなぁと感じ、ランドスケープとアートの融合作品を見るようであまりにも衝撃的だったのが私がその本を見た時の印象だったのです。 このデレク・ジャーマンの本はその後私の大切な一冊となり、長く勤めた仕事を辞めた後に趣味のガーデニング から新たにアートと融合したランドスケー プを勉強をしたいと思ったきっかけの一つにもなったのです。このデレク・ジャーマンの本との出会いは、私にとって時に人生の指針にもなり、自分の大切な過渡期にも影響した一冊の本だったのでした。

気がつくとデレク・ジャーマンという人物がつくり上げたものに影響された人が私の周りにもたくさんいて、それも各業界で活躍されてた方々がデレク・ ジャーマンに魅せられていたのです。生前のデレク・ジャーマンに実際に会って写真を撮っていたカメラマンの奥宮誠次さんは、当時ロンドンに住まい、 たまたま日本に帰国した 1987年渋谷のシネマライズで上映してた「カラヴァッジオ」を観たことがきっかけだったようでロンドンに戻り 1989 年の夏に、 奥宮さんはデレク・ジャーマンの家(プロスペクトコテージ)を訪れ写真を撮る機会を得たそうです 。それから最後に写真を撮ったのは デレークがなくなる1年ほど前だったと聞きました。目に見えないものと闘ってる静かな姿、武器を持たない闘い、彼の作品や生き方自体に惹かれたの がきっかけだったそうです。その記録でもある撮影した多くの写真は彼が亡くなった後、ロンドンのバービガン・センターでの回顧展準備のために貸し出し中に不運にも紛失され手元に残っていたのはわずかな写真だったそうで、きっとその時の想いは私達が想像を絶する落胆だった事と思うのです。その中で手元に残っていた晩年期の僅かな写真で 2018 年に「原発ガーデン映画監督デレクジャーマンの最晩年」文庫本を奥宮さんは出版したのです。そしてもう一人はイラストレーターでもあり絵本作家でもある小渕ももさん、デレク・ジャーマンが他界した後、追悼特集の写真で彼 の庭と出会い、それ以来ずっと気になって 2001 年にダンジネスの現地に行き、その風景に言葉を失い、そこからたくさんのインスピレーションを受けたことが、ももさんの 2003 年に「ずっとずっと空の彼方までも行っている気分なのです。ダンジネスの浜、デレク・ジャーマンの庭」という絵本の出版に 繋がっていったそうです。

 

それぞれ身近にいる人たちが気がつきけばデレク・ジャーマンに魅せられて表現していたのです。私自身もデレク・ジャーマンを初めて知ってから 27 年、 今なお、彼の残した生前の庭の記録である一冊の本は色褪せていません。静かな時間を過ごしたい時にそっとページを開きエネルギーをもらう大切な一冊でもあるのです。そして魅せられた人たちのそれぞれのデレク・ジャーマンがあることを知り、パセリセージの空間でご紹介したいと考えました。晩年のデレク・ジャーマンの奥宮さんの写真、小渕ももさんがダンジネスの浜にてデレク・ジャーマンの庭からインスピレーションを得た絵本の原画を展示します。通常だと私が展示に合わせてディスプレィしたりするのですが、デレク・ジャーマンの庭を再現するのはまず無理なことで何か植物を飾った としてもそれは嘘っぽくもあり、そこでパセリセージのアートディレクター三上晃央がデレク・ジャーマンのプロスペクトコテージの図面から象徴的な黒い家のコテージの模型を制作することにしました。

ネットで図面を探しあて、いざコテージの画像を集めていると奥宮さんが撮っていた生前のデレク・ ジャーマンが住んでいた頃のコテージと亡くなってからのコテージに変化があることに気が付き、窓枠が違っていたり家が増築されていたり、それなら デレク・ジャーマン生前のコテージの模型をシンプルに再現しようと考えました。 人にはそれぞれ、人生を左右するような出会いだったり、魅せられる人や物そして場所など、時としていろいろあります。今回のパセリセージ展示イベ ントはデレク・ジャーマンに魅せられた人たちのそれぞれの追想でもあるのです。

パセリセージ 三上星美

追想 デレク・ジャーマン

奥宮誠次写真展

デレク・ジャーマン (1942 ‒ 1994)、映画監督、舞台デザイナー、画家、園芸家、 作家、詩人でもある、レジェントと称されるイギリス出身のアーティスト。 1986 年、イングランド南東のケント州の村、ダンジネスに移住。

1989 年、ドーバー海峡に面したその村落に、私は初めてデレクを訪ねた。黄色の窓枠にコールタール塗装の’ Prospect Cottage’、囲いのない創造的な庭に、彼の優しい眼差しがとても印象的だ。ダンジネス原子力発電所から聞こえてくる 鈍い音がいつまでも続いていた。

1986 年、海岸に取り残された漁師小屋 ’Prospect Cottage’ にデレクは住み始め た。HIV に冒され弱っていく自分を見つめつつ、植物を育て、海岸の気に入った石や貝殻、流木などを拾い集めてはオブジェを作り、そして、その独創的な庭にミツバチの巣箱を置き、養蜂をも始めた。

その後も数年に渡って、私は幾度かダンジネスのコテージに足を運び、ロンドンにある彼のスタジオへも赴く。

「できるだけ早くこれを描きたいんだ。もうあまり時間がないからね、ボクには」と言って、画筆は使わず、手の平に直に絵の具をとり、彩色が指からキャンバスに。まるでキャンバスとコミュニケイトしているかのように自由に表現する デレクの姿を、私は決して忘れないであろう。


奥宮誠次
2022 年 6 月吉日

 

 

奥宮誠次

高知県生まれ。写真家。1986 年に渡英し、ロンドン を拠点に主にヨーロッパで活動。
2012 年、再び東京に活動の拠点を移す。「Anchovy Studio」設立。 主な著書に「世界の動物園」「風が笑えば」(俵万智と の共著)「原発ガーデン」などがある。

 

 

 

ダンジネスの浜 デレク・ジャーマンの庭

小渕ももイラスト原画展

2001 年の秋、彼の意があるイギリス南東部の海岸。ダンジネスの浜を初めて訪れた時、まずその風景に言葉を失った。遠浅の砂利浜に曳きあげられ朽ちかけた大小の船、赤い鉄の塊になった機械、閂がかけられたまま今ではただの箱に なった道具小屋、それらが点在する浜の情景は、荒涼として、とても現実離れした世界を創り出していた。そして、道を一本隔てた浜の反対側には、人が住んでいる家がかなりの間隔を置いて、まるで模型の家型を置いたようにまばらに在った。

そんな家々の中のひとつ、真黒な壁に黄色い窓枠の家がデレク・ジャーマンのコテージで、彼の庭がその家を囲っていた。ここに来てこの風景の中で、この浜あっての彼の庭だったのだと、私は心から納得できた。彼はエイズで亡くなる最後の一時期をここで過ごし、庭を造った。彼の庭に抱いた私の感動も、今となればほほえましい。浜から集めてきたもので庭をつくっている彼の楽しみ が伝わってくるからだ。最初に訪れてから、この浜と彼の庭、そこでの自分の想いを描きたいと思っていた。2002年、2度目に訪れて、次々に浮かぶイメージを断片のまま描き始め、とても楽しみながら 25 枚の絵ができた。

彼が浜から集めてきたもので庭を造ったように、それを観て生まれたイメージを拾い集めて私の庭ができていたら嬉しい。そして、私の庭を絵本のページをめくるように観て頂けたら幸せです。

小渕もも

 

小渕 もも
イラストレーター

桑沢デザイン研究所 研究科卒業 広告 雑誌イラスト 挿絵 舞台美術 衣装 テキスタイルデザインの仕事の傍ら個展でオリジナル作品を発表。2001 年よりロンド ン サンフランシスコ ニューヨーク ドイツなど居場所 を移し、2004 年から 2008 年迄タイの チェンマイに 住みエイズの孤児 施設バーンロムサイで子ども達と絵を描きながら創作活動を続け、一年に一度青山で個展を開催。